野蛮な文明

2022年

一九歳の塩沢悠翔は、心地よいアラーム音によって六時間の眠りから覚めた。しかし彼の心は、ウィタ・モバイルの担当者によってつくられた音楽に相反して、重く沈んでいた。

美しく磨かれ、傷つきにくくする加工を施された画面は、窓から差し込む陽光を反射していた。彼は枕元からスマートフォンを取り上げ、表示された時間を確かめた。

午前六時十七分

地元の高校をなんとか卒業した塩沢悠翔は、シェーナーツェイトという会社で働いていた。この社名はドイツ語で「美しい時」を意味する。 シェーナーツェイトは人材派遣会社で、倉庫作業や什器の搬出入など、さまざまな業務を請け負っていた。彼はそのスタッフ、すなわち会社が請けてきた業務にあたる役職である。

今日は十一月二十八日だ。会社からは、七時までに事業所へ着くよう指示されている。カップラーメンを食べ、着替えて必要な物をまとめ、六時四十分には家を出た。自転車に乗り、十分かけて事業所に向かう。 通りを歩く人は皆、マスクをつけていた。コロナ禍はまだ終わらない。こりゃ永遠に終わらないんじゃないかとさえ思う。 事業所までの道順と交通規則は、しっかりと身体が覚えていた。だからこそ、コロナやら社会問題やらといったことを考えながらでも、無傷で定刻通りに事業所に足を踏み入れることができるのである。

事業所から出発する段になってようやく、誰と同じ現場で働くことになるか分かるのだ。今日の同僚のなかには、あの人もいる。名前は知らないが、いつも塩沢悠翔をいじめ、嫌がらせるのだ。運の悪いことに、最近はあの人と同じ現場にあてがわれることが多いのだ。

だからといって、ハラスメントだと騒げば事業所の責任者が対応してくれる保証はない。むしろ、めんどうな奴だと思われて首を切られるかもしれない。この不況のことだ。もしシェーナーツェイトから放り出されたとしたら、世のなかの仕組みをろくに知らない塩沢悠翔にとってはなおさら生きることは難しいだろう。転職や起業はおろか、生活保障に頼る方法すら分からないのだ。

バンに乗って現場へ向かう。過ぎ去っていく建物のひとつひとつに、自分たちのような作業員がさまざまなものを運び入れたのだ。さらには建物を建てた人、設計した人、材料を加工して運んだ人、そして──法律や仕組みはよくわからなかったが──土地の所有やら許可やらといったことをした人がいるのだ。この仕事をするようになってはじめて、文明都市がなみなみならぬ労苦のもとに成り立っていることを身をもって知った。いくらゆたかな建物や施設を思い描いたとしても、それを科学的、工学的見地から具体的で実現可能な計画に落とし込み、そしてそのむずかしい計画を実行しなければ、空想の域を出ることができないのだ。

高速道路を、一般道を、あぜ道を、狭い路地を通り抜け、バンはどうやら現場に着いたようだった。なにかの工事現場だと聞いていたが、具体的な業務内容はまだ知らされていなかった。 バンから降りてようやく、待ち望んだ業務命令が下される。彼にとって業務内容というのは、毎月届く雑誌のように、中身が気になるものなのだ。 今日の業務内容は、資材を五メートルほど運ぶことだった。これを何度も繰り返すのだ。たかが五メートルと思われるかもしれないが、重い資材を持って移動するには労力の要る距離であるし、繰り返すとなればその労力はいささかでは済まされない。専用の人材を派遣してもらえば、工事にたずさわる方々にはめっぽう助けになるのだ。

さて、問題の資材は予想外に早く運び終わった。八時半から運びはじめ、九時半を過ぎる頃には、資材のほとんどが目的のところに落ち着いていた。この段階では、あの人はまだ陰湿な本性をあらわにしていなかった。むろん、いじめたいという欲求を制御できるわけではなかったのではあるが、塩沢悠翔に人格否定の暴言をすれ違いざまに一言か二言吐きつけただけで済んでいた。

実のところ、当の本人ですらその欲求がよこしまなものであることに気づいていたが、それがどこから来るのかはわからなかったし、ましてや抑えることなど無理な話だった。 契約では、十二時まで業務にあたらなければならないことになっていた。二時間半も残っているのだ。依頼主としても、安くはない金を払って呼んだスタッフを、資材を運び終わったからといって追い帰すのはもったいない。ならばドアの設置もやらせてしまえばいいのではないか。スタッフの中には依頼主の担当者と顔見知りの人もいるし、ドアを取り付ける技能を持つ人だって何人かいるだろう。

こうして、その場の流れでドアの取り付け作業まで請け負うことになった。これは公共性の高い建物であるし、むろんドアを取り付けることが欠かせないのはいうまでもない。だが、塩沢悠翔は重い物を運ぶ力はあっても、それを細かく調整することは苦手だった。すなわち、ドアを傾けたりねじ穴に合わせたりすることは、はっきりいって無理なのである。

といっても、そんな事情をくみ取ってくれるほど現場は甘くない。本当のことをいうなら、あの人だって塩沢悠翔を痛めつけたいわけではない。ことの成り行きというか、あるいは物理的な法則なのかもしれないが、いずれにせよ塩沢悠翔を苦しめてはずかしめることになるに過ぎないのだ。

まずは、塩沢悠翔にドアを取り付けさせる。むろん、効率が悪くてなかなかうまくことは運ばない。なんとか取り付けようと努力しているそばであの人は、「ばかやろう、遅いぞ」とか、「早よできねえか、使えねえな」とか、しまいには、「おまえなんていらないんだよ」などと言うのである。

塩沢悠翔にはあの人の心のうちをおしはかる術はなかった。あの人は日頃のうっぷんゆえに機嫌を悪くしているのかもしれないし、怠けているように見える塩沢悠翔にいらだちを抑えられなかったのかもしれないのだ。いずれにせよここで事を大きくしては、この火種が何を引火させるか知ったことではない。いくら辛くても、この場を穏便に保つほかない。 ドアをひとつ取り付け終えたところで、あの人は塩沢悠翔の手を引っ張り、取り付けの業務から外した。

「おまえはここで見学でもしていろ」あの人はそう言って、他のスタッフとともに取り付け作業に入った。ドアが積み上げられている所から取り付けるべき所までのあいだに、塩沢悠翔は立たされていた。あの人はドアを運び、そして取りに行くたびにすれ違い、「ぼうっとつっ立ってることしかできない、クズが」とか、「必要ないんだよ、とっとと消え失せなっつーの」といった言葉を吐きかけた。

やがて、正午を告げるチャイム音が、ほんの十数メートル離れたところにあるスピーカーから村落じゅうにこだました。塩沢悠翔もあの人も他の作業員も、バンに乗り込んで帰路についた。とちゅうでコンビニエンスストアに寄って昼食をとる。商品棚をながめていると、小さな安っぽいメモ帳が目にとまった。塩沢悠翔はここ半年以上文字を書いたことはなかったが、そう遠からぬうちに紙とペンが必要になる気がした。

カップラーメンをいくつかまとめ買いし、うちひとつをいまここ、止まっているバンの後部席で消費することにした。

しょっぱい、に近いだろうか。少なくとも、彼の知る語のうちにはあてはまるものはなかった。しかし、なんだかおいしい味である。麺をすすっているうちに、脳がまるでベンジンを含んだ綿のように重くなっていくのが感じられた。なにを考えていたのかを思い出そうとしたが、難しい数学の問題を目の前にしたときのように、思考がとどこおっていた。彼が食べ終わってしばらくすると、バンは動き出した。もはや彼の脳は、目の前をいささかならざる速さで過ぎ去る村落と自動車道のほかは、なにも思考に入れることができなかった。

家に着くと、事業所から電話がかかってきた。明日も仕事に出てもらえるかという問い合わせだった。今日のできごことが思い出された。断ってしまおうかと思ったが、そうなると五千円ほどの金を手にできなくなってしまう。この国で生きていくにあたっては、五千円でさえ大金なのだ。しかもこの機会を逃すと、次に仕事が回ってくるのはいつか分からない。では、なぜそこまでして生きる必要がある?

出られないんですか、と苛立ちを含んだ声が電話口から聞こえた。塩沢悠翔は焦り、冷静さを失った。このときに支配を確かなものにするのは、理性ではなく本能──生きたいという、いささか非現実的なもの──なのだ。彼の口は半ば無意識に、はいと答えていた。

ツーツーという終話音が耳に響く。彼は考えた──自分がいま自殺したとしたら、死体はどうなるのだ? 家賃の滞納か、あるいは死臭かなにかで大家が気づき、マスターキーでドアを開ける。そこには死体がある。大家は警察だか市役所だかに届け出て、特殊清掃の専門業者に死体処理を依頼する。そして物件の価値とやらがいちじるしく下がる。これが彼の思いつくかぎりのストーリーだった。

結局社会は、価値を提供できない人に対しては、死体ですら存在を許さないのだ。デリート・キーかバックスペース・キーであとかたもなく消え去る画面上の文字のごとく、消えてくれといっているのである。しかしそんなことはできない。形のあるものが消えるなど、ありえないではないか。

たしかに自分がこの境遇におちいったのも、無知や怠惰ゆえかもしれない。しかしそれでも、そうとは知らずにバナナの皮が落ちている道を選んだ者に、自身の治療費ならまだしも転んだ音の騒音迷惑料まで払わせるような冷酷な社会に、やるせなさを抑えきれなかった。

なんだか腹が減ってきた。塩沢悠翔はカップラーメンのふたを開け、熱湯を注いだ。電気ポットから吐き出される湯が、かすかに黄色くにごっていた。思い返せば、数ヶ月間も電気ポットの手入れをしていなかった。だが、それでも別にいいではないか。カビやら雑菌やらの入った湯を飲んだとしても、自分がぶっ倒れるだけで済むのだ。病気で死ぬならそれでもいいし、働けなくなって餓死するとしてもかまわない。死ぬまで腹が痛むだろうが、生き続ける苦しみにくらべたら問題の外だ。

彼はスマートフォンを取り出して、ニュースサイトを開いた。登山をしていた若者が遭難したが、無事救助されたらしい。コメント欄を見ると、予想通りというべきか、遭難者への中傷で埋め尽くされていた。

は?なんで登山なんてしてんの?

救助隊にどれだけ迷惑をかけたか! 救助費用は自分で払うんだよね?

山なんて登るから遭難するんだよ。最初から登んなきゃいいの。

自己責任。

彼は思った──この若者は、「救助」されることなく山の中で死んでいたほうが、幸せだったのかもしれない。記事を読み進めていくと、山から帰らない子を心配した親が、警察に通報したらしいのだ。 心配するのはわかるが、なぜ自分の子を社会に連れ戻し、中傷にさらさなければならないのだ? もし自分が山でけがをしたり道に迷ったりしても、社会に連れ戻されるのだけはごめんだ。そうなったら山のなかでひっそりと死ぬつもりである。

窓の外からは、山が雪をかぶっているのが見えた。はたして自然は、この文明より厳しいのだろうか。自然は行き倒れた人を弔ってくれるが、文明は死者を中傷するということだけは少なくとも確かである。 自然の中で暮らすのもらくではないが、それは文明のなかでも同じこと。 彼はメモ帳を取り出し、真っ黒なボールペンでこう書いた。

文明は野蛮である

なぜわざわざ、文明などというものをつくらなければならなかったのだ? 文明などというのは必要なく、自然のまま──狩りをしたり、木の実を採ったり、ときには同胞と拳やつぶてを交わしたり──生きればいいのだ。確かに自然は厳しい。食べ物を得るだけでもたいへんな労苦をついやさなければならず、うまく立ち回れない者は死に直面する。しかし文明だって同じようなものなのだから。


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